空のER騒動 -1- 緊急事態発生 

いやな予感はしていた。

それはフランクフルト発の成田行き、某日系エアラインの機上での事。
私はドイツでの仕事を終えて、日本への帰国の途上であった。

その日のフライトは大きく揺れる事もなく順調。
機内では食事のサービスも終わり、
多くの乗客はお酒も少し入ってリラックスし、
あとはゆっくり眠って成田への到着を待つばかりとなっていた。

客室内は先程から消灯され暗くなっている。
私もシートのリクライニングを大きく倒し、
旅の疲れもあいまってか、うとうとし始めた頃であった。

後の方が少し騒がしいかなと思っていると、
一人の男性が何かつぶやきながら、ふらふらと通路を前方へと歩いて来た。
そしてそのすぐ後から、
スチュワーデスが彼を制止するかのように追いかけて行ったのである。

             

私は薄目を開けて、見るとはなしにその光景を見ていたのであるが、
何か変だなとは感じていた。

何なんだろうか・・・

そんな事を考えながらも、またうとうとし始めた矢先、
今度は前方から騒ぎが近づいてきた。
目を開けると、先程の男性が前方からすごい勢いで歩いて来ている。
更に足元がかなりふらついて、とても危なっかしい。

そして私の席の横を通り過ぎようとしたその時、
事もあろうか彼は突然大きくバランスを崩して、
私のすぐ横の通路でばったりと前向きに倒れ、
うめき声を上げた後に動かなくなってしまったのである。

             

緊急の事態が発生している事は一目瞭然であった。

すぐにスチュワーデスが何人か集まってきて、
この事態への対応を検討するためであろう、機内をせわしく行き来し始めた。

数分の後、一人のスチュワーデスが席の番号を確認しながらこちらに向かって来た。
そして私の座席番号を確認すると、
少し安心したような表情の中にも、きっぱりと私に向かってこう言った。

「社員の方ですね」

「そうです」

私はこれから先に起こるであろう事態に、
少し酔った寝起きの頭ではあったが、
覚悟を決めながらそう答えたのであった。

<つづく>
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空のER騒動 -2- 出動 

「社員の方ですね」

航空会社の社員であれば、自社便に搭乗する時は、
「何かあれば即座に自分も対応しなければならない」という暗黙の了解があって、
搭乗者リストの中にも、社員はちゃんと明示されている。

それでも通常は、国際線であれば食事のリクエスト時に和食を遠慮する
(日本に向けての便では不足気味になる)くらいであって、
こういう事態に遭遇する確率は極めて低い。

ついにこの時が巡ってきたか・・・

私は少し緊張した。

             

通路で男性は倒れたまま動かない。

間もなく機内放送があった。

「お客様の中で、お医者さんか看護婦さんはいらっしゃいませんでしょうか」

社内のレポートでは何度も目にした事があった。
機内での急病人発生の場合、まずは応急措置をするために
医療関係の人を探すのである。
そして多くのレポートでは、幸い誰かそのような人が乗客の中で見つかっている。

そんなにいつも乗り合わせているものだろうか・・・

私は祈るような気持ちで反応を待った。

             

果たして数分後。

一人の外国人が、

「I’m a doctor」

と言って前方から名乗り出て来た。
学会か何かで日本に出張に行く途中の、ドイツ人の医師だそうである。

ほっとしていたところ今度は後方から、
一人の日本人が、ぼさぼさの頭でシャツの裾をズボンに入れながらこちらにやって来た。
明らかに直前までリラックスして就寝していた方のようである。

「医者ですが」

その場に安堵の空気が流れた。

医師が二人。これで何とかなる・・・

早速、スチュワーデスが救急キッドの入ったケースを持って来て、
取り急ぎ応急処置に入る事になった。

しかし実際には、それからが一騒動だったのである。

<つづく>
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空のER騒動 -3- 日独同時多発診察 

依然として通路に横たわる乗客。

その脇には、日本人とドイツ人の医師二名。

スチュワーデスは救急キッドの入ったケースを開け、
いくぶん緊張した表情で中を確認している。
たぶん彼女達にとっても、そんなに頻繁に遭遇する状況ではないのであろう。

そして私はといえば、何となくその場の雰囲気で、
「通訳兼、医師の助手」のような形になっていた。

             

二人の医師が「それぞれに」診察を始めた。

「ズボンを緩めて」 (ドイツ人医師)

      「脈を計りましょう」 (日本人医師)

「彼に痛いところは無いか聞いて」 (独)

      「点滴はありますか」 (日)

「彼女は彼の奥さんか」 (独)
 
      「点滴の準備をして下さい」 (日)

「これまでどんな様子だったか奥さんに聞いて」 (独)

      「針を刺すから、ここ押さえて」 (日)

私は、一方では乗客のベルトを緩め点滴の針を押さえながら、
もう片方では奥さんにこれまでの経緯を聞いてドイツ人医師に通訳し、
更にはスチュワーデスから点滴の金具のつけ方(そんなの知らん)のアドバイスを乞われ
それには常識の範囲内で答えるという、
持てる能力をフルパワーにして「忠実な助手」の役割をこなしていった。

             

そうやって、応急処置は何とか進んでいたのであるが、
見ると床の上の乗客の呼吸が苦しそうである。

「酸素吸入をしましょうか」 (日)

「それがいい」 (独)

という日独共通の見解がついに得られた。

スチュワーデスが緊急時の訓練を思い出しながらか、
説明書を確認しながら、急いで酸素ボンベの準備を始めていた。
ところがこの酸素吸入が、その後予想外の展開を見せるのである。

<つづく>
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空のER騒動 -4- 決死の酸素吸入 

スチュワーデスが説明書を読みながら酸素吸入器をチェックしている。

横で見ていると、容器の先に付いた何やら小さな風船のようなものを膨らませており、
どうやらそれは、正常に酸素が出ているかを確認する為のようであった。

私はその様子を漠然と眺めていたのであるが、
素人目にもその風船の膨らみ方が何だか弱々しいのが、少し気になっていた。

「準備OKです。」

彼女が医師(日本人)にそれを渡した。

「それではこれを患者の口に強く当てて下さい。」

医師はすっかり助手と化していた私に指示し、
私は言われた通りに吸入器のプラスチックのマスク状になった部分を、
彼の口に押し当てた。

これで少しでも楽になってもらえれば…

             

数十秒が経過した。

何も反応がない。

私は酸素が漏れないようにと、更に強く容器を押し当てて様子を見たところ、
心なしか患者の表情が苦しそうである。

要領が悪かったかもしれないと思い一度吸入器を外し、
私は再度慎重にトライしてみた。
これで酸素が漏れることはないはずである。

一同が様子を見守る中、また数十秒が経過した。

すると今度は明らかに患者の顔色が急激に青くなっていき、
苦しそうにもがき始めた。

「おかしいですね」

さすがに医師も様子が変である事に気付き、
酸素吸入器を私から取り上げてチェックした。

そして彼が言った。

「これ、酸素が出てませんよ・・・」

             

「おいおいおい!」

私と患者の心の叫びがシンクロした。

「酸素どころか、これじゃ息ができないじゃないか!」

どうも、あの事前チェックの弱々しい風船の膨らみ方が気になっていたのであるが、
やはりボンベの開け方が少なかったせいか、ほとんど酸素が出ていないようであった。
私の頭の中には、「業務上過失致死」とか「殺人ほう助罪」という言葉が去来していた。

これから成田まで、大丈夫なのであろうか・・・

私はにわかに不安になってきていた。

<つづく>
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空のER騒動 -5- 終りなきミッション 

すんでの所で、酸素吸入どころか患者の呼吸を止めてしまいかねない状況であったが、
それでも処置の甲斐あって、なんとか容体は落ち着いてきていた。

とりあえず点滴をしながら、
なるべく動かさないようにして様子を見るという事でその場の意見は一致し、
患者の乗客は、スクリーンのすぐ後ろの、足元の広い席の床に移された。

             

「機長に相談したところ、札幌に緊急着陸するよりも成田まで直接向かい、
 救急車の手配をしておく方がいいだろうという事になりました。」

二人の医師にスチュワーデスからの報告があった。

なぜ札幌かというと、ドイツからのこの便は、
シベリアの上空を通過して北海道の方向から成田に向かって南に降りていくので、
日本で最初に到達できる主要空港は札幌なのである。
しかし当初の予定通り成田に向かうという。

これで、私の役目もほぼ終わったな…

多少どたばたはあったものの、社員としての責務は一程度果せたのではないか。
私は少し安堵した。

             

やっと自分の席に戻ることができた。
予想もしなかった急病人の発生から、日本人とドイツ人医師による同時多発診察の助手、
点滴の補助、そして酸素吸入での一騒動。
慣れない一連の作業によって、私はかなり疲れていた。

そしてシートを倒し、残りの時間で少しでも眠ろうと思っていたところ、
先程のスチュワーデスが私の席にまたやってきた。

「あのー、もう一つお願いしたい事があるのですが」

当然何事であっても、また引き受けなくてはならないだろう。

今度は何であろうか…

私はシートで一人身を硬くしていた。

<つづく>
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空のER騒動 -6- 着陸体勢 

「もうひとつお願いしたいことがあるのですが」

私は身を硬くして、スチュワーデスの次の言葉を待った。

「着陸の時に、患者のお客さまを押さえておいていただけませんか」

例の乗客は、あまり動かさない方がいいだろうという医師の判断のもと、
依然として床に横になっており、着陸時もそのままの体勢にしておくという。

「着陸が近づいたら、声をお掛けします」

着陸予定時間までは約3時間。
たぶん急病人発生という事で優先的に着陸するので、時間通りには到着するであろう。

私は少しでも眠ろうと思ったのであるが、
無事成田に到着するまでは、到底くつろげそうにはなかった。

             

「すみません、そろそろお願いします。」

どれくらい時間が経ったであろうか。
無理やり目を閉じていた私に、スチュワーデスから声がかかった。
結局この12時間近いフライトでは、ほとんど眠る事ができなかった事になる。

私は、床に患者が横たわるスクリーンを目の前にした席に移動した。
この席で着陸時に足元の彼を押さえるのが、
社員としての私の(願わくば)最後のミッションなのである。

押さえているだけで本当に効果があるのだろうか…

私は少々疑問に感じながらも、シートに座って気持ちの準備をしていた。

             

シートベルト着用のサインが点灯した。
様子を見に来た担当のスチュワーデスが言った。

「ではよろしくお願いします。大丈夫、今日は腕のいいキャプテンですから。」

ということは、今日は特別にそーっと着陸するという事なのか…

そもそも着陸時に人が床に寝ていれば、転がっていってしまうものなのであろうか…

いろいろと考える間もなく、機体は成田に向け高度を下げていった。

<つづく>
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空のER騒動 -7- 決死の前屈姿勢 

機体は高度を下げ続けている。
そしてシートベルトを締めた私の足元には、患者の乗客が横になって眠っている。

そう、私のミッションは着陸時に彼を「押さえている」こと。

私は早速足元の彼に手を伸ばしてみた。

             

苦しい…

シートベルトが腹に食い込んで、とうてい身体を前屈などできない。

しかたなく私は、ベルトをゆるゆるの状態にして、再度手を伸ばしてみた。
今度は何とかいけそうである。

が、しかし、これでは私自身が安全であるかどうか分らないうえに、
完全に「変な格好」である。

他の乗客が着陸に際して皆、前を向いて座っているのに、
私は独り前屈姿勢のまま片手(両手はとうてい無理という事が判明)で
足元の乗客を「押さえて」いる。

こんなので効果があるのだろうか…

一瞬疑問が頭の中をよぎったが、この際邪念は捨てる事にして、
私は社員としてのミッションに集中する事にした。

             

機体は最終の着陸態勢に入った。

ずっと下を向いていたので、だんだん頭に血が上ってきている。

一刻も早く到着して欲しいが、
着陸の時の衝撃で彼が転がっていかない保証はないので、気を抜く事もできない。

「大丈夫、今日は腕のいいキャプテンですから」

着陸の技術が本当に関係あるのかどうか分からなかったが、
この際そんな事はどうでもよく、
私はスチュワーデスのその言葉に全てを賭けていた。

             

ついに機体が地面を捉えた。

私は最後の力をふり絞って、片手で足元の彼を押さえつけた。
上気した私のこめかみに浮き出た数本の血管。(たぶん)

数秒の後、我々の機体は滑るように滑走路に降り立ち、
ターミナルへと向かっていた。

安堵の気持ちと共に、疲れがどっと私に押し寄せて来た。

何とか責任は果せたな…

ところが、そんな私の気持ちなどはよそに、
ミッションはまだ私を解放してはくれなかったのである。

<つづく>
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空のER騒動 -8- 社員よ永遠なれ 

我々の飛行機は、無事ターミナルの所定のスポットに到着した。

そこには既に救急車がスタンバイしており、
私の足元の患者を最優先でタンカに乗せて出て行った。

私は、このフライトの約半分の6時間をかけた緊急ミッションの終焉を感じながら、
他の乗客と一緒に降機しようとした。

ところが、向こうからチーフパーサーが私の所にやってきて、こう言ったのである。

「すみません、警察の検証があるかもしれませんので、少し残っておいて下さい。」

私は諦めていた。

もうこの際、何でもやります、はい…

             

誰もいなくなった客席に、呆けたように待つこと約20分。
チーフパーサーがやっとこちらに戻ってきた。

「やっぱり、今日はもういいみたいです。お疲れさまでした。」

まさかの急病人発生と、日独同時多発診察に引き続いての酸素吸入の珍騒動、
そして着陸時片手押さえ。
(「エマージェンシー・ワンハンド・ランディング "EOL"」と後日命名)

1週間分の出張の疲れが一気に私に襲いかかってきた。

             

数ヶ月後。
私はマレーシアへ向かう機上にあった。

「社員の方ですね」

突然の呼びかけに、私はまたしても身を硬くした。

また何か発生したのか…

「ああ、やっぱりそうだ」

ふと顔を上げると、そこには先の急病人発生のフライト時の、
チーフパーサーの笑顔があった。

「あの時はお世話になりました。
 みんなで言っていたんですよ、今日は何かあっても安心だねって。」

「そうですか。何でも言ってください。」

私は反射的に「模範的社員」の受け答えをしていた。

             

それから数時間。

機体がクアラルンプール空港に到着するまで、
私は何とも落ち着かない時間を、一人機内で過ごしていたのであった。

<空のER騒動・完>

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